職場の休憩室には、同僚たちの屈託のない笑い声が響いている。
「今度の週末、どこか行くの?」
「あそこのラーメン、美味しかったよ」
さっきまで、自分もその輪の中にいた。コーヒーを飲みながら、適当に相槌を打っていたはずだった。
けれど、ポケットの中でスマートフォンが短く震えた瞬間、私の心臓はドクリと嫌な音を立てた。画面を開くと、そこには母からの悲痛なLINEが並んでいる。
学校へ行く時間になり、母が「そろそろ学校行く時間だから準備しよう!」と声をかけたのだという。それに対する次男の返答は、あまりに無慈悲なものだった。
「黙れ、クソババア」
「もう悲しすぎる。どうしたらいいの」という母の言葉。
その一行を目にした瞬間、周囲の音は遠のいた。同僚たちの楽しげな声は、私の意識の脇をただ素通りしていく無機質な音の塊に変わる。
私はスマホを見つめ、何度も返信を打ちかけては消した。
「無理に行かせなくていいよ」と送れば、その場の衝突は収まるかもしれない。けれど、それでは母が独りで「投げ出した」ような罪悪感を背負うことになる。
結局、私が選んだのはこの一文だった。
「わかった、帰って話します」
次男に私の声が届かないことは、痛いほど分かっている。それでも、今この瞬間の母の悲しみを少しでも和らげるには、自分が「対峙する役」を引き受けるしかなかった。
休憩時間が終わる。私は肺の底にある重い空気を吐き出した。
スマホをポケットにしまい、鏡を見るまでもなく「いつもの自分」の顔を作る。
何もなかったかのように。
誰にも悟られないように。
玄関のドアノブに手をかけたとき、考えていたのはたった一つのことだけだった。
「平常通りに」
あのLINEの内容などなかったかのように、いつも通りの「ただいま」を言う。
それが、崩れそうな家族を守るための、私にできる精一杯の戦いだった。